- 武庫離宮(離宮公園) その1-
離宮道 正門 馬車道

須磨離宮、正式名は「武庫離宮」です。
天皇のご宿泊を目的に明治41年2月10日に造営が決定。
大正3年に完成しました。
完成してすぐ大正天皇、当時皇太子であった昭和天皇やラストエンペラーとして 知られる満州国溥儀皇帝らがご利用になられました。

ー もともとは、西本願寺 大谷光瑞の別邸 ー
大谷光瑞は1902年(明治35年)にこの地を買い上げ別邸としていました。
大谷光瑞はシルクロードを探検したりした非常に行動半径の広い活動的な人だったようで そんな膨大な資料を整理するためにこの別邸を利用したようです。

ー 武庫離宮になるまで ー
その後、1907年(明治40年)宮内庁がこの山林、宅地を買い取り翌年より離宮造営が始まりました。
離宮の候補地としては明石城なども考えられたようですが、この地のほうがよい水が得られることなど からこの月見山の地に決定されました。
当時はコレラ等の疫病がはやり、良質の水が得られることは重要な問題でした。
温室なども相当りっぱなものが光瑞の敷地にはあったようです。
宮内庁に買い上げられた代替地として光瑞は岡本の地を与えられ、二楽荘を作りました。

ー 終戦後 離宮公園として市民に開放ー
惜しくも武庫離宮は昭和20年の空襲で消失。
いったんは神戸市に下げ渡されましたが、翌年には進駐軍の射撃演習場として接収されます。
神戸市に返還されたのは1956年(昭和31年)のことです。
そして1958年(昭和33年)皇太子殿下(現天皇 今上天皇)ご成婚記念行事として公園造成に着手。
1967年(昭和42年)に離宮公園として正式に開園されました。

今年は武庫離宮造営の決定が下された1908年から数えて101年にあたります。

今も残る武庫離宮跡を歩いてみたいと思います。

離宮道



離宮公園に行くには海沿いに続く国道2号線から北に離宮道という道を歩きます。
離宮公園は山すそに作られている公園なのでまさに海から山へと続く道です。

中央が高く今は車道になっているところが、昔天皇陛下が通られた道で、一般人は左右の低く なった道(人民道)を通ります。



今見えているところは離宮道の東側の人民道なのですが、2007年に惜しくも取り壊された名建築で知られた 室谷邸の跡地が見えています。
まだ周囲の塀、門は残っている状態です。
(2009.2.8現在)



離宮道の北の突き当たりに歩道橋。
この歩道橋を渡ると離宮公園の入り口になります。

この歩道橋から南を見ると、まっすぐに続く離宮道と青い須磨の海が見え、 あ〜須磨だなぁとしみじみする瞬間です。(笑)


正門に到着です。


正門



門扉は当時のものではありませんが、両側の門柱、亀甲形の石積み塀は
当初からのもの。



周囲の石垣はどっしりと
その歴史を伝えています。


正門を入ると。

馬車道



正門から中門までの道は馬車道といいます。
下の写真は当初のもの。

比較すると左側(西側)のカイヅカイブキの列植がりっぱに育って
  おおきくなっているのに 驚きます。
昔は背丈が小さい植え込みでした。



東側の斜面の木々も今は大きいです。

ヒマラヤ杉は昔は印度杉と呼ばれていたそうです。
正門を入ってすぐの斜面に大きなこの木を見ることができます。
この木は26.1mもの高さがあります。

このヒマラヤ杉も100年の歴史をみてきた証人です。

 

馬車道の西側コンクリート塀

 

東側の低い石垣

 

東側斜面の岩にみえる石

上の写真のものはすべて当初からのもの。
斜面に見えている大きな岩状の石は、十数個から数十個の庭石を組合わせて壮大な岩石が自然に露出してように 見せています。
石は香川県産のものです。

ちょうど武庫離宮造営が始まった頃、香川の栗林公園の一部改修工事があり、武庫離宮の庭園設計者である 福羽逸人も栗林公園に行ったり来たりしており、職人も共通する人たちがかかわったこともあり 香川の石などが使われたのかもしれないとのことでした。

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