神戸散策

トアロード

元町大丸の東の端からまっすぐ山の麓まで1kmのゆるやかな坂道


この道にブティック、デリカテッセン、画廊、レストラン、写真館、国際学校などが並んでいます。

一番山の突き当たりが神戸外国倶楽部。
この美しい坂道は旧居留地を仕事場にし北野町の異人館を住まいに持つ外国人達の通勤道路であり、生活道路でもありました。


そのためこの坂道は神戸ハイカラの雰囲気をもつ独特の通りとなったのです。

昔、トアロードの名前の由来ともなったといわれるトアホテルが、このトアロードの突き当たり、今は外国人倶楽部になっているところにありました。
旧外国人居留地にはすでに日本最初のホテルであるオリエンタルホテルがありましたが、もうひとつそんなホテルがほしいと英、独、米、仏の人々の共同出資で1908年(明治41年)にトアホテルが完成しました。

それは赤いとんがり帽子が3つ並んだまるでお伽話のお城のようなホテルだったそうです。

クラッシックな英国調、庭園は日本風、89の客室はすべて室内の色が違っていて客は好きな色が選べたとか。

夜毎にくりひろげられる紳士・淑女のダンスパーティー、また、食堂、バー、テニスコートも調い、海岸通のオリエンタルホテルと環境、設備、サービスで競い合い、当時スエズの東では最高級のホテルと称されたそうです。

このトアホテルのトアですが、なぜトアという名前がついたのか。

それはこのホテルが建つ前イギリス人F.J.バーデンズがここに大邸宅を構えThe Toaと称していました。
Toaとは古英語でHILLの意味だそうで小山、丘を意味します。当時神戸に住む外国人はこのあたり一帯をHILLと呼んでいたそうです。

このトアホテル、時代は移り経営は米英からの日本、スイスへと変わり、その後川崎重工の病院、分院となり空襲も免れ終戦となりました。
ライバルのオリエンタルホテルは空襲で焼失、そのオリエンタルホテルのオーナーがこのトアホテルを使って再起を図ろうとしていた矢先に米軍に接収され将校宿舎となり、その運営はオリエンタルホテルに任されました。

そして運命の日、1950年4月22日午前零時出火!
翌朝の新聞には「オリエンタルホテル深夜に炎上」と報じられ、下田菊次郎(東大工学部中退後、アメリカ・カナダで腕を磨いた)の設計したこの華麗なホテルは姿を消したのでした。

そして1959年トアロードの丘の上のトアホテルの跡地にはKOBE CLUB(神戸外国倶楽部)が建てられました。
今でもこの外国倶楽部の庭園は当時の面影を残しています。
そして普段はここには入れないのですが毎年開催される神戸ジャズストリートの会場になっているため、この時は庭園もゆっくり楽しめます。


さて、この丘を後にして、海まで続きそうなこの坂道を下っていきましょう。
中ほどにガーデニング風の喫茶室があります。
ここは元NHK、震災で全壊し今はハーブガーデンになっています。

第二次大戦下、この元NHK、トアガーデンの道路を隔てた西側に難破船と称されるような安ホテルがありました。

-水枕 ガバリと寒い海がある。-

この句を読んだのは西東三鬼という俳人です。
「冬の桃…神戸 続神戸 俳愚伝」
三鬼は東京で歯医者をしていたのですが、京大俳句事件で検挙され、東京を逃れて神戸にたどりつきました。

三鬼が「難破船のような」と、形容したその安ホテルは国籍もはっきりしないような外国人が出入りし、酒場に勤める女たちが長期滞在していました。

ホテルの窓はトアロードに面しており、その窓に頬杖をつき三鬼はそこを行き交う人や、窓の下にくる人を眺めながら暮らすのでした。
三日に一度くらいに現れる不思議な狂人の話、ドイツ人水兵、エジプト人マジットとの友情…。

そのあたりを歩いていると、そのころのエキゾチックな情景が浮かんできます。

今のトアロードは人通りこそ東の北野坂より少ないですが、独特の雰囲気を持ち、今又そのあたり一帯の東西を含めトアイースト、トアウェストと呼ばれ脚光を浴びています。
トアロードの本道は昔を忍ばせるしっとりした落ち着きのある通り、その東西は若者の集まるちょっとアメリカンな店がOPENしだし、今からどのような界隈になっていくのかちょっとした楽しみではあります。

参考文献 ふりむけば港の灯り 轄品社

     TOR ROAD STYLE BOOK (COSMOPOLITAN STREET)
神戸新聞総合出版センター