神戸散策 <

兵庫運河

小樽運河は有名ですが、日本一大きな運河は和田岬にある
兵庫運河だという のはご存知でしょうか。

なぜ、和田岬に運河が作られたのか。
兵庫の津に入港する船は和田岬の地形により東の風、南の風に 弱かったためここを通る船は嵐の日には 大変な難儀をしいられていました。

そこで運河を掘ることにより岬をまわらずに兵庫の津に入港することができるという発想からでした。
初代神戸市会議長の神田兵衛門が1873年に着手し、新川運河がつくられました。

今でも新川運河にはその日、漁のない舟が寄せ集まって舟だまりに使われています。
また、このとき削られてできた島が「中の島」です。


中の島には中央市場があります。中央市場には「魚に感謝之碑」とういのがたてられています。
新川運河沿いには1995年に整備されたキャナルプロムナードが続いていてのんびりと散歩できる素敵なところになりました。

このキャナルプロムナードに兵庫県庁跡の碑があります。
最初の兵庫県庁はここにあったのです。

初代兵庫県知事である伊藤博文もここに通ったのです。



また、ここは兵庫城跡でもあります。
池田信輝、輝政親子が花隈城攻めの功により織田信長より兵庫の地を与えられ、花隈城の廃材も使って築城しました。
明治新政府の頃にはこの城跡の一部に兵庫鎮台が設けられまた、その後兵庫裁判所と名が変わり、またすぐ兵庫県と改められました。

その後県庁は今の神戸地方裁判所(JR神戸駅の北)に新築移転され、さらに明治6年現在地(中央区市も山手)に移転しました。


続いてこの神田兵衛門の仕事を引き継いで完成させたのが八尾善四郎でした。
1896年に着手しその2年後に兵庫運河が完成しました。
そして兵庫運河を掘った砂は苅藻島の埋め立てに使われました。
最後には私財をなげうってこの運河を完成させたそうです。

この八尾善四郎の胸像は今でも橋の上にあります。
子供の頃そこを通るたびに誰の像かなと思っていました。
この兵庫運河のはかりしれない恩恵を受けた地元の人々は戦中の金物供出からも必死でこの胸像を守り抜いたそうです。

私の子供の頃は運河の意味もわからず
材木をいつも浮かべていた変わった川だと思っていましたが、
すごい歴史があったのですね。

まさにこの一帯は兵庫県の発祥の地なのです。
今は訪れる人も少なく兵庫運河の名さえ知らない人が多くなりました。

2003年9月追記
このところ町おこしの気運が高まり兵庫運河も脚光をあびてきました。
2002年のワールドカップのために神戸地下鉄も開通し、
このあたりの交通事情がよくなったのはうれしいことです。