神戸散策 竜馬がみた海

メリケンパークには神戸海援隊の像があります。


文久3年(1863年)5月、軍艦奉行並・勝海舟は幕府から神戸に海軍操練所の開設を許されました。

海舟は自分が若き日、長崎でオランダ人から教わった航海術、測量学、造船学等のすべてを、若者達に教えるつもりでした。
その操練所を開設するまでの準備期間として、勝海舟は私塾を開くことにしました。
これが神戸海軍塾(操練所の前身)です。
その塾頭をまかされたのが竜馬でした。
海軍塾に入門したいという若者がこの神戸に集まり竜馬は日に200人も面接したといわれています。
この中には後に池田屋事件の望月亀弥太、蛤御門の変の安岡金馬、後の外務大臣の陸奥宗光らもいました。
当時の海舟の屋敷はなんと三宮町1丁目のセンター街の東出口(当時は西国街道に面していました。)の北側にあったようです。
そこには30坪の塾舎も設けられ多くの若者が寝泊りし海軍塾に通っていたのです。


しかし、この海軍塾から幕府に対抗するものが現れ幕府はこの操練所も閉鎖するように海舟に命じました。
海舟は無念の想いで海軍操練所の看板をその地に埋めたといいます。
竜馬が操練所の廃止を聞き、今後の見の振り方を考えたときにこの神戸の海を見ながら世界を相手に貿易をするという、後の亀山社中の構想を確実なものにしたに違いありません。神戸の海は竜馬の夢を育んだところなのです。
こののち竜馬は海舟と共に大坂に戻り、海舟は江戸へ、竜馬は長崎へと別れたまま再び会うことはありませんでした。
---漫画「おーい、竜馬」では、一度長崎で会ったことになってると外野から意見がでました。(笑)

このメリケンパークの「神戸海援隊」に、次のように書かれています。

-「1868年から65年にかけ神戸小野浜に勝海舟、坂本竜馬らによってつくられた海軍操練所が存在した。武士、町人、農民をとわず若者達が大洋に夢をはせ経済、科学など多くのことを学んだ。夢をはたせず志なかばに倒れていった若者達を神戸海援隊と名づけその短い青春の夢をここに刻む」-

ポートアイランドに引っ越す前の商工会議所のところに錨と書物の操練所の碑がありました。今は操練所跡として文字が刻み込まれた碑があるのですが、昔のその碑は今は、摩耶埠頭の義勇海運の倉庫の中にあると「気まぐれかもめ」の角本さんが教えてくれました。
いつの日かちゃんとしたところに据えられるまで倉庫の中で眠っているのです。
何年か前竜馬のお墓のある霊山護国神社にいきました。竜馬の墓のまわりは、多くの若者が夢を語り、竜馬に語りかける文字で 一杯でした。

これとおんなじ光景を、渋谷でみました。
渋谷の陸橋の上の尾崎豊のメモリアルです。
この陸橋は当時青山学園に通っていた尾崎が下校時いつも夕日を眺めていたところです。
メモリアルの周りの陸橋の壁という壁には尾崎に宛てたメッセージやこれからの決意がかかれていました。