ポートアイランドの青少年科学館の屋上の 金色に輝くドームにいつも子供達に太陽の 黒点やコロナを見せてくれる25センチ 屈折望遠鏡があります。
その名は”たいよう”
この”たいよう”が神戸に来たのは
この80年の”たいよう”の物語を |
もともと”たいよう”は神戸中山手にあった 神戸海洋気象台に設置されました。
設置されたのは気象台。
天文台ならいざ知らず、どうして海洋気象台に
当時の気象台の業務には天体現象の観測という
しかしその当時、この25センチ屈折望遠鏡と |
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この素晴らしい天体望遠鏡が神戸に来た 物語を語るのにはまず神戸海洋気象台の開設 からのお話です。
1920年(大正9年)折からの海運ブームで
神戸が選ばれたのは日本第一級の港が
そのときの海洋気象台建設の費用は当時の金額で
当時の気象台は文部省の管轄になっていて、 |
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しかし、どうしても気象データーが欲しかった 海運業者たちは寄付金でこの建設費用の一部を負担しました。
この海洋気象台、管轄は文部省ということで
初代気象台長の岡田武松氏は技術者の育成のため その留学生に選ばれたのが技師関口鯉口氏でした。
彼がスイス、イギリスでの1年半あまりの留学から
価格は当時のお金で5万円。
世界でもA級の性能を誇る望遠鏡でした。
その当時の5万円は今でいう1億5千万円以上の
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その設置のため新しく建設された別館の 無線電信室にドームが作られました。
”たいよう”の活躍が始まったのは残された文献より、
当時、太陽の気象に及ぼす影響として太陽の黒点が
イギリス留学から帰国した関口氏のもとでこの
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レンズをのぞくとこんな風に! |
”たいよう”の最も輝かしい活躍の時期です。
当時は東京の三鷹天文台に20センチ、京都大学の
「気温に及ぼす太陽活動の直接作用の検出」
昭和4年6月7日には昭和天皇が海洋気象台に来られ、 |
この輝かしい望遠鏡の活躍も長くは続きませんでした。
関口氏が東京の中央天文台に移られた昭和2年から
そして戦時中から戦後25年頃まで取り扱う人も無く
そんな"たいよう"に少し出番がまわってきたときが
昭和25年神戸海洋気象台に着任した片山昭氏
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戦後すぐの海洋気象台は、焼夷弾を受けドームが歪んで開きませんでした。
そこで京都の西村製作所に修理を依頼し、なんとか修理できた望遠鏡で
そして最終的に相当の成果をあげられたのでした。
しかし、昭和31年に片山氏が東京管区気象台に転出されたあとは、
そんな"たいよう"を心にかける人たちがいました。
神戸在住の民間の天文愛好家の方たちでした。
皆は"たいよう"を忘れてはいませんでした。
なんとかしたい、なんとかしょうじゃないか、とマスコミや各方面に
昭和33年2月2日の神戸新聞の記事には「神戸海洋気象台の年老いた大望遠鏡」
イギリスから神戸にやってきた、クック望遠鏡。
ここに東亜天文学会という天文同好会がありました。
東亜天文学会は京都大学に本部を置き、アマチュアの天文同好会の間では
その東亜天文学会の神戸支部は昭和20年台から30年台の初め頃まで
そして幾度と無くこの海洋気象台の暗いドームに眠ったままの「たいよう」
何とかしなくては。
人々のそんな思いをよそに"たいよう"はひたすら冬眠していたのでした。
"たいよう"は聞くところによると接眼レンズはほとんど行方しれず。
しかし、日本製のレンズでこれは対応可能だと思う。
そして対物レンズは分解、清掃、組み立てにより何とか使い物になるだろう。
周囲の心配する声が聞こえてきます。
50年ほどの前の作品だけれど(当時昭和30年台)今尚、その精度や
このままにしておくのは、もったいない。 同じものを作るとなると1,000万円〜1,500万ほどもかかるだろう。ー等々 |
神戸海洋気象台が"たいよう"を手放そうとしているという話が広まりました。
いろんなところから名乗りをあげてきました。
各地の観光協会、気象大学校、海上保安庁水路部。
神戸育ちの"たいよう"はやっぱり地元に愛着があります。 |
地元の天文愛好家たちは熱烈に神戸市に働きかけました。
どれほどの予算があればオーバーホールが可能か、また神戸市には
このようなたくさんの方々の熱意で昭和42年9月に神戸市に
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神戸市に委譲されることになった25センチ 望遠鏡「たいよう」は昭和42年9月23日、 17個のパーツに梱包され神戸市立体育館に 納められました。
この時の解体、海洋気象台からの運び出しは
神戸市への委譲価格は5万円。
神戸市はこのとき、「市内に天文館を作り、
どこにそのような施設を作るか。。。
結局、費用と場所の問題が解決せず、計画は実らず、
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時は流れて昭和53年、神戸市に海上都市ポートアイランドの 完成を記念してポートピア博を開催するという企画が 持ち上がりました。
そして博覧会のパビリオンとして建設される「神戸館」と
そしてここに再び、"たいよう"の復活の話題が
長く中央体育館の中にしまわれていた"たいよう"が使い物に
レンズのチェックが行われました。
解体を請け負った京都の西村製作所に依頼した結果、
いよいよオーバーホール開始、"たいよう"復活の日は |
17年前、海洋気象台から解体、梱包され運び出された"たいよう"。 今度はその西村製作所の息子さんである西村有三氏が再び、 修理復活の任を得て、父親の梱包を解きオーバーホールが 始まりました。
その復活の記録は西村製作所の西村有三氏が詳しく
細かいパーツはそのまま使えるものが多く、さすがクック社の
基部台には「T.COOKER&SONS」とあるが製造番号などを記した
目盛板についていたプレートには「1923」とあったこと。
西村製作所としてもこれほど大型の機材のオーバーホールは経験なく、 |
神戸海洋気象台設立当時、神戸港に入港してくる船の甲板から 朝焼けの中からホンノリ夢のように浮かんでくる輝く竜宮城 に近づくように見えたと当時の新聞にかかれたそうです。
その竜宮城の屋上のにぶく輝くドームの中に、
今は「神戸市青少年科学館の最上階ドームの中に
"たいよう"は復活しました! |
今、"たいよう"は、すこぶる元気です。
自分の居場所を見つけてはりきっているようにも見えます。
昨年(2005年)神戸は震災10年を迎え、この"たいよう"の
どんなに素晴らしい機材でもそれを使いこなす人と、
それを得たとき、"たいよう"は生き生きとその真価を発揮します。
現在の「たいよう」のエネルギーは目を輝かせてレンズをのぞく子供たちです!
神戸の”たいよう”の物語はまだまだ続きます。
ずっとずっと元気で。
この街と共に! |
参考文献:「ふたたび太陽を追って-よみがえった25cm屈折望遠鏡-」 神戸市教育委員会編 |