★ あの時 神戸に
こんなものがあった!
その7

神戸にこんな建物があった…。
神戸にこんな会社があった…。
しっかりと記憶にとどめたいと思います。

君を励ます”ファイト!”

◆2005年(平成17年)1月12日
    〜1月13日

2005年1月17日 阪神淡路大震災

メリケンパークに建つホテルオークラも被災し、休業に追い込まれました。
しかし、従業員皆さんの努力で再開のめどがつき、営業再開の直前の1995年2月21日から2月28日まで 客室の灯りで”ファイト”の文字を描き、被災した市民を励ましました。
そして10年。
10年ぶりに再び”ファイト”の文字が。
宿泊のお客様に協力していただき、当時の気持ちを忘れず、復興に向けてがんばろうという 決意をあらわしました。
当時を思い出し胸が熱くなる”ファイト”でした。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0112ke71220.html

神戸市中央区 メリケンパーク

ツェッペリンNT号 神戸上陸”

◆2005月(平成17年)1月13日
2005年1月13日早朝、7時半頃、神戸ポートアイランドにドイツから到着したツェッペリンNT号はそろりそろりと 船から引き出され日本上陸を果たしました。
はるばる6ヶ月の旅でした。
その旅程は文字通り波乱の旅程で、詳細は以下の通りです。

ツェッペリンNT号

潮が満ちてくるのを待っての上陸でした。
このあと、神戸の街の上空に飛び上がり各地に愛知博のPRを行いながら日本中をめぐる予定です。


神戸市中央区 ポートアイランド

コーヒーショップ 摩耶 磯上通り

2004.12.23撮影

◆〜2004年(平成16年)12月

そごうの東、磯上通りの角にコーヒーショップ摩耶がありました。
とても印象深い店で、目印になりやすい角にあったこと。
店の看板の字体がとても目立ち、興味を引いていたことです。
道を説明するにも、「摩耶」の東とか西ということで、友達通しはわかりあえたところでしたが いつのまにか閉店となっていました。

閉店になってしまってからの画像しか残っておりません。
とうとう一度も入ることはありませんでした〜。

神戸市中央区磯上通り

新神戸駅前 ルミナリエ サテライト会場

2004年12月26日撮影

◆1996年(平成8年)12月
     〜2004年(平成16年)12月

ルミナリエの本会場とは別にサテライト会場ができたのは1996年(平成8年)第二回ルミナリエの時からでした。
新幹線を降りられ神戸に来られたお客様はまばゆい光に感激されたことと思います。
規模は小さいですが、これがなかなか素敵なルミナリエでした。
特に客待ちをしているタクシーの天井部にあたる光は感動物でした。
ルミナリエの新神戸サテライト会場として1996年から2004年まで開催されました。
最後の2004年の新神戸駅前ルミナリエはスパッリエーラ・Sirio「シリウス」です。

メッセージは
  際輝く神戸の星は
  星空の旅人を迎える

神戸市中央区 新神戸駅前

さよなら六甲有馬ロープウェイ表六甲線

◆1970年(昭和45年)7月
     〜2004年(平成16年)12月18日

表六甲駅〜天狗岩駅〜六甲山頂カンツリー駅

六甲有馬ロープウェイは、有馬温泉と六甲山頂を結ぶ裏六甲線が昭和45年7月、市街地への連絡路線の表六甲線が昭和45年8月に 六甲有馬ロープウェイ鰍ノより営業が開始されました。

その後、昭和47年4月に神戸市都市整備公社に営業を譲渡。

平成7年1月17日の阪神淡路大震災により甚大な被害を受け、全線復旧までに9ヶ月間を要しました。

2004年12月まで1300万人を越える乗客を空中パノラマの感動の旅に誘いました。
しかし、乗客数の減少により(運賃が高いためと思われます。)裏六甲線のみを残し、表六甲線は休止となりました。

この表六甲線からは紀伊半島も一望でき、その眺めは最高のロープウェイでした。
長さも乗換えを入れると日本最長の5kmの空中散歩が味わえる素晴らしいものでした。

12月18日でその運行は休止されましたが19日には応募に当選された市民を乗せ、表六甲線さよなら記念運行が催され、多くの人が名残を惜しみました。
カンツリー駅でのパネル展を見て、夜のロープウェイに乗って神戸の市街地を眺めるということを忘れていたことに気がつきました。
残念です!

神戸市灘区

(市営)新長田ふれあい足湯

2004.3.14撮影

◆〜2004年(平成16年)

再開発工事がすすむ新長田でひとときの憩いの場、新長田ふれあい足湯が開かれました。
この足湯は1999年(平成11年)10月に地下1,000mに掘り当てたアスタ温泉を源泉とする足湯でした。
20人くらいしか入れない足湯でしたが、地元の人たちに親しまれました。
再開発事業のため取り壊しになりましたが、 再開発の建物、2008年(平成20年)3月29日にグランドオープンしたホテルサーブ神戸アスタではこの足湯を受け継ぎ、「ふれあい足湯アスタ」として市民に開放しています。

神戸市長田区 JR新長田駅南

ポートライナー複線化工事による代替バス


2004.11.21撮影

◆2004年(平成16年)
     11月20日(土)、21日(日)

神戸空港の建設によりポートライナーは空港との主要アクセス交通機関になるため従来の単線区域の複線化工事が 行われました。
工事区間の切り替えのためポートライナーは運休。
その間、神戸市バスによる代替輸送が行われました。
三宮は市役所前が終点となり、市役所前は終日混雑しました。
土日を利用して行われたため、最小限の混雑で終了しました。

赤く臨時と書かれた市バスがポートアイランドを走り回りました。

神戸市中央区 市役所前ーポートアイランド

ちから餅 トアロード店 閉店

2004.10.31撮影


2004.10.9撮影


◆戦前〜2004年(平成16年)10月25日

長く長く神戸大丸東口を出るとすぐ目の前にあったうどん屋さん。
いつもにぎわっていたと思っていましたが閉店になってしまいました。
店頭に張り出された挨拶状には全商品100円引きとの案内がされていました。

------------ちから餅閉店のご挨拶----------
開店以来、多くの皆様にお引きたていただきましたが、この度きたる 10月25日の営業終了をもって閉店させて戴くことにになりました。
永年にわたりご贔屓いただきまして、従業員一同心より御礼申しあげます。
これまでのご愛顧におこたえして全商品100円引きにて奉仕させていただきます。
皆様のご来店を賜りますようお願い申しあげます。
ちから餅 店主敬白
ーーーーー----------------

店頭には昔の「ちから餅」の写真が貼ってありましたがガラスが反射して わけのわからない写真になりここにupできません。
非常に残念です。

その写真の説明には「戦災前の当店の姿 昭和14年5月」と読めます。
このような老舗がなくなってしまうのは本当に惜しいです。

古くからある懐かしい神戸大丸前の風景のひとつでした。

神戸市中央区 神戸大丸北側

神戸ルネッサンスの垂れ幕

2004.10.31撮影


◆2004年(平成16年)10月

三宮センター街を歩いていて見つけました。
「神戸ルネッサンス」は震災後に作られた特定非営利活動法人のようです。
設立の趣旨は次のようにHPに載せられています。

神戸ルネサンス倶楽部は2001年4月、市民が阪神淡路大震災から立ち直り、手を取り合って「からだと心の復興」を達成できるように、地域及び市民活動を企画・実施・援助すること、その為の活動を強化し発展させることを目的として設立されました。

2005年1月17日の震災10年を控え、垂れ幕の言葉が胸を打ちました。

太古の先人が耕した豊穣な地
万葉の歌人が目にした島影
源平の軍馬がひしめいた汀(みぎわ)
筆を極めた文人が記した光
居留地に灯した明り
面々とつらなる時に想いをはせる

そして、あの日

形あるものは失ったけれど
この地に培われた感性
それを愛おしむ知性は息づいていた
あれから10年

神戸市中央区 三宮センター街

希望の灯りの破損

2004.9.14撮影



◆2004年(平成16年)9月9日

2004年9月9日午前3時。
希望の灯りのガラスケースを男性により木製バットで壊されました。
通行人が見つけ生田署に通報、逮捕されましたが、「こういうモニュメントは大嫌いなんや」と語ったそうです。

このモニュメントは2000年1月17日に兵庫県内の被災地10市10町と全国から運ばれた火を合わせて 点灯されました。

全国の皆さんの想いがこもったこの希望の灯り、二度と壊されることがないように祈ります。

なお、2003年にも大学生が誤ってバットでこのモニュメントのガラスケースを破損しました。
大切にしたいと思います。

神戸市中央区 東遊園地

栄光教会 テントの仮設教会

◆1995年(平成7年)4月
     〜2004年(平成16年)9月

神戸栄光教会は下山手に煉瓦作りで天にそびえるシンボル的な教会でした。
阪神・淡路大震災で全壊した後、長く仮設テントドームの教会で礼拝が行われていました。
再建プランはやっと2002年にまとまり、国内外からの寄付により、2004年に完成。
再建に長くかかったのはあまりに信者の皆様や地域の思い入れの深い建物のため、 じっくり再建プランを練ったからだと聞きました。

このあたりを歩くたびに、この仮設ドームを見ながら在りし日のりっぱな栄光教会を 思い出しておりました。
手前の大きな木は震災に耐えて残りました。

神戸市中央区

日本一狭い危険なホーム 阪神春日野道駅

↑画像提供のんきさん


2005年9月旧ホームは島のように
新ホームの間に残されています。

◆1934年(昭和9年)
     〜2004年(平成16年)9月

阪神春日野道駅は1933年に三宮、岩屋間が地下化されるときに廃止される予定だったそうですが、住民の要望で急遽、地下駅を設けることになりました。
予定外の駅のためスペースがなく仕方なく上り下りが同じホームの島型ホームとなりました。
当初はそれでも幅3mあったホームですが、車両の大型化のため両端が20cm切断され、幅2.6mの日本一狭いホームとなったようです。
HAT神戸への最寄駅のため乗降人数が増えることが予想され、平成13年より駅の改良工事がはじまりました。
上り下りがわかれた新しいホームが新設され、この危険なホームは9月24日に70年にわたるその長い歴史をとじました。
特筆すべきは、明らかに危険なホームだと皆がわかっていたためか、転落事故などは聞いたことがなかったそうです。

神戸市中央区

灘駅弁 

◆2004年(平成16年)6月27日

もうすぐ取り壊され高架になるJR灘駅に駅弁がなかったことから、この小さな皆から愛された灘駅に 駅弁を作ろうと灘の名産を取り入れた豪華な駅弁が作られました。
2004年4月3日都賀川桜祭りの日に限定100食の駅弁が作られ、その後第五弾まで好評のうちに作られました。
JR灘駅の駅弁ー灘駅に捧ぐ
←左の写真は6月に作られた第二弾の灘駅弁です。

JR灘駅は2008年より高架化の工事が始まりました。
地元の人々に大切にされ愛された小さな駅の記念すべき駅弁でした。

神戸市灘区 JR灘駅

西灘劇場

◆1951年(昭和26年)〜
     2004年(平成16年)5月31日

神戸では震災で多くの映画館が全壊しなくなってしまいましたが、せっかく震災を乗り越えてきた映画館も老朽化で閉鎖があいつぎました。
西灘劇場は1951年開館、アサヒシネマは1954年の開館です。
西灘劇場、一度も入ったことはありませんでしたが山手幹線から見える黄色い建物はとても目を引きました。
閉館の最後の1ヶ月ほどは厳選された名画が上映され、別れを惜しむ人であふれました。
ラスト上映は「恋する惑星」。この劇場であの軽快なメロディーを聴きお別れをしたかったのですが、都合がつかず本当に残念でした。
最後の1ヶ月は、入館した人にピーナッツなどのおつまみがスタッフから配られたそうです。
街の皆さんに惜しまれながら閉館しました。
尚、アサヒシネマはビジネスホテルとして建替えが決まっているそうです。
神戸市灘区

サンタマリア号 半焼



半焼の翌日4月18日撮影



半焼したサンタマリアをバックに
メリケンフェスタのサンバの練習

◆1996年(平成8年)
〜2004年(平成16年)4月17日(土)

4月17日、午後12時25分頃 海洋博物館で野外展示している木造帆船サンタマリア号が出火、半焼しました。

1990年建造。
コロンブスの新大陸発見の公開を記念して復元され、スペイン、バルセロナから神戸までやってきました。
全国を航行したあと、1996年からメリケンパークに展示、公開されていました。
老朽化で補修作業中の事故だったということですが、出火原因は不明。
7月にはここメリケンパークを会場とするメリケンフェスタが予定されており、復元作業は すみやかに行われました。

写真は半焼前のサンタマリア号です。

ちょうどこの日は生田神社のお祭りで、三宮周辺はにぎやかでしたが、この頃サンタマリア号は炎をあげていたのです!

神戸市中央区 メリケンパーク

ポートアイランド西バース 最後のキリン




◆1980年(昭和55年)
     〜2004年(平成16年)4月13日

2004年4月13日。
ポートアイランド西バースに最後に残ったキリンが六甲アイランドのキリン2頭と共に インドへ旅立ちました。

ポートアイランドが開島した当時は多くの仲間と一緒でしたが、櫛の歯が抜けるように 仲間が去っていき、たった1頭残ったキリンでした。
ポーアイを去って今は元気でインドで働いています。

神戸きりん物語
続・きりん物語


神戸市中央区 ポートアイランド

ハーバーサーカス

のんきさん提供


DAIさん提供

◆1996年(平成8年)4月
     〜2004年(平成16年)3月

人材派遣会社パソナなどの企業や個人が出資してできた神戸ハーバーサーカス。
ハーバーランドの西武百貨店が撤退した跡、震災で打撃を受けた神戸に雇用を提供し、活気付けるため 故郷神戸に画期的な商業施設を作ったのは南部社長でした。

地下2階、地上5階の建物に、いろんなアイデアを詰め込みました。
フロアに人を乗せて走らせるトラムや、人気の吉本興業も進出し、被災者を応援するために敷金無しで開店できる 一坪ショップを提供するなど話題にもことかきませんでした。
しかし、思うように売り上げが伸びずパソナが撤退。
見限られた思いをしたのは私だけだったでしょうか。

今にして思えば、あのピエロこそハーバーサーカスのシンボルでしたね。

オリックス・ブルーウェーブ

◆1991年(平成3年)
     〜2004年(平成16年)3月

神戸にないものは空港とプロ野球と言われていた時代があったそうです。
1988年神戸市は60億円をかけてグリーンスタジアム神戸球場を建設。
1991年、神戸市は商店街関係者を中心に約6万2OOO人の署名を集め、オリックスを誘致しました。
神戸市民にとって初めての市民球団でした。
そして1995年1月阪神淡路大震災。
なんとその年にオリックスはうちひしがれた市民にリーグ優勝のプレゼントをしてくれました。
その肩に「がんばろうKOBE」のワッペンをつけて。
三宮近辺はオリックス応援の人であふれ、センター街にも大型TVが持ち込まれ、生田神社には 宮司さんが人々に指揮棒ならぬお祓いで持って境内にあふれる人々と共に数台の大型TVの前で必勝の祈りをささげました。
オリックス・ブルーウェーブ。
青波。神戸にふさわしい素敵な球団名でした。

2004年オリックスは近鉄バッファローと合併。
球団名もオリックス・バッファローとなりました。
しかし、私たちはいつまでも忘れません。
その名は オリックス・ブルーウェーブ!!!

神戸新聞会館駐車場

◆1995年(平成7年)1月
     〜2004年(平成16年)3月

三宮駅前の神戸新聞会館は阪神淡路大震災で全壊、取り壊されました。
その撤去された跡地はまた新聞会館が戻ってくるのか、いつ再建されるのかといつも気になっていました。
神戸新聞本社はハーバーランドの新社屋に移り、このぽっかり空いた駅前の一等地は実に10年間も何も建たなかったのです。
アルファルトにならされた傾斜地のこの跡地は駐車場として存在しました。

30分\250、24:00〜7:00は30分\200
収容台数93台

やっとこの空き地に神戸新聞会館再建のニュースが伝わり、起工式が行われたのは2004年3月18日のことでした。
いつもいつもポートライナーから、三宮駅前からこの空き地を眺めていました。

この空き地はあまりにも長く見つめていたため、心の隅にもぽっかりその存在が残ってしまいました。

兵庫県里程元標

2002年9月15日撮影 
湊川神社



2004年5月5日撮影 
元町6丁目入り口

◆1960年(昭和35年)5月
     〜2004年(平成16年)3月

2004年3月頃まで「兵庫県里程元標」は湊川神社の東入り口付近にありました。
この里程標は元々、国鉄(JR)が高架化されるまでは神戸駅近くの相生橋の西詰にあったようです。
現在はまた湊川神社から相生橋があった付近に移されていますが、2004年3月頃まで約44年間は湊川神社の入り口に置かれていました。

「里程元標について」
「旅は道連れ世は情けというが昔の旅人たちにとって唯一の道しるべは里程標であり これによって明日への旅の希望を抱かせる心の糧となったのである。

兵庫県の里程元標は元相生橋の西詰にあったが昭和6年10月国鉄高架線の完成により 相生橋の撤去と共に取り除かれ保存されていたものであり、往時をしのぶよすがとして ここに移転復活したものである。

文 及川秀雄 
元の場所より西へ約150米移す
昭和35年5月吉日  主宰者 日本錨少年団」

日本錨少年団!!!

日本海洋少年団の前身でしょうか。

2007年1月26日記

水の壁

◆〜2004年(平成16年)3月

元町6丁目をでたところに小さなスペースの公園?がありました。
そこは見るも涼しげな水の壁。
でも夏は苔が生え、水が汚れて向こうが見えない壁となります。
いったいどのように掃除するものか、ご苦労なことだと思っておりましたが、いつのまにか工事が始まりとうとう壁面のガラスが取り除かれてしまい、枠組みだけの壁になりました。

上の写真がきれいな水の壁。
下の写真が苔で汚れて向こうが見えない壁です。

思うにやっぱりメンテナンスが大変なのでしょう。
でもやっぱり水のある方が楽しかったのです〜

神戸市中央区元町6丁目

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