◆ 神戸総合インフォメーションセンター |
| ◆〜2002年7月31日
神戸三宮駅と三宮センター街の間、震災復興館の隣に位置し、神戸に来られた方のインフォメーション、並びに神戸のおみやげコーナーがおかれていた。神戸各区の案内の小冊子やパンフレット類も充実し神戸市民もくつろげる神戸案内のオアシス空間であった。隣の震災復興館の取り壊しと共にこの小さなプレハブ作りの案内所もとりこわされることとなり新神戸総合インフォメーションは三宮駅構内に移されたがそこはスペースがないため、おみやげコーナーは廃止された。残念です!!
所在地:神戸市中央区三宮駅前
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◆ アスタスクェア |
| ◆〜2002年7月31日
アスタスクェアは、1階建・約230平方メートルで、約300人が収容可能なホールで、元パチンコ店を改造して作られた。その施設運営については、新長田まちづくり株式会社が行い、震災ですっかり賑わいをなくした大正筋界隈の活性化を目的としたイベントを行ってきた。しかし、再開発で新しくできるアスタ国づかのビルをはじめとする町作りのため取り壊しをきめた。その間、多くのプロ、アマミュージシャンが出演し地元の音楽活動の拠点となり震災後寂しくなったこの地区の活性のための目的を果たした。最後の日は入場料1000円で大賑わいのさよならコンサート。
所在地:神戸市長田区大正筋
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◆ 西神戸センター街アーケード |
| ◆〜2002年7月31日
新長田南地区。震災で全長100mのうち40mが屋根の骨組みもむきだしになった。阪神・淡路大震災のすさまじさを生々しくつたえるこのアーケードは商店主らで作る「アスタきらめき会」とまちづくり運営会社「神戸長田TMO」の有志が2001年、保存検討会を設立し何度も保存か撤去かと討議されたが、移転先、維持管理等の課題を乗り越えることができずとうとう撤去が決った。撤去の前に住民とのお別れの会が開かれた。私が小さい頃母に連れられて市場に買い物にきた商店街です。
所在地:神戸市長田区西神戸センター街
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◆2002年ワールドカップ サッカー |
市役所もサッカーの垂れ幕
復興支援館前
JR三ノ宮駅構内の号外
| ◆2002年6月
2002年FIFAワールドカップ サッカーが日本と韓国で開催され、神戸もその会場の一つとなりました。
6月5日、7日 一次リーグ
6月17日 決勝トーナメントの1回戦
復興支援館が神戸におけるサーカー応援の拠点となり、復興支援館前では通行人も一体となった熱い応援が
繰り広げられました。
試合会場となった兵庫区御崎公園スタジアムは一般公募で愛称をつのり「神戸ウィングスタジアム」と改称されました。
JR三ノ宮駅も試合のたびに号外が配られ、2002年6月の神戸はサッカー一色となったのでした。
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◆橋脚は海を渡った!スカイブリッジ |
| ◆2002年5月
神戸空港の連絡橋。
ハーバーランドの高浜岸壁から見えました。
画像は2002年5月4日。
神戸空港連絡橋(スカイブリッジ)は明石海峡大橋や神戸大橋など多くの橋梁を手がけた川崎重工業で作られ海を渡ったのでした。
ハーバーランドからは川重のドックから進水する船も見えます♪
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◆ エコカーパスカル研究所 |
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◆1998年〜2002年4月12日
阪神大震災で打撃を受けた観光業のために神戸市が発案。人材派遣会社のパソナとトヨタ自動車、オリックスが出資。世界で初めてのエコカー(低公害車)専門のレンタル会社として設立された「神戸エコカー」と地元のベンチャー企業である静止WHEELキャップを発明した「パスカル研究所」が合併。
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「パスカル研究所」の社名は気圧計の発明者であるロバート・フックに敬意を払い彼のように世の中に貢献できる発明を行いたいと願って付けられたそうです。
写真は画期的な静止ホイール「E−CAPS」(国内外で特許取得済)
所在地:神戸市中央区港島中町 |
◆ 舞子タワー |
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◆1992年11月open〜2002年3月31日
1998年4月に完成した明石海峡大橋の見学施設として建設された。地上から100mまで10分で昇る回転昇降式のタワー。360度のパノラマが楽しめた。当初兵庫県と神戸市、本州四国・連絡橋公団が「設置期間は橋の完成まで」とする覚書をかわしていたが神戸市が橋が完成したあとも「観光客がみこめる」と存続をきめたもの。しかし震災の影響で観光客もおちこみ補修の時期もきていることから閉鎖を決定。高さ114m、直径3.5M、重さ約500t
所在地:神戸市垂水区
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タワーの内部。 ちょっとした宇宙 ステーションのように 回転しながら 昇っていきます。
下の画像提供:けろさん
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上記は舞子タワーからの眺め。
2002.6.19クレーン船で海路運ばれ六甲アイランドにて解体
写真は六甲アイランドで横わたる舞子タワー。
美しい神戸の灯をバックに最期の時をまちます。
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◆ 阪神・淡路大震災復興支援館 |
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1996年7月20日〜2002年3月31日
通称フェニックスプラザ
震災の翌年から情報の発信、被災者自立支援情報の提供、交流・学習の場の提供を目的に作られた。国内外から290万の来館者を数えその情報発信の役目はHAT神戸にできた「人と防災の未来センター」に受け継がれた。
◆支援館のあゆみ◆
○平成8年 7月 開館
○平成8年 9月 来館者が10万人を超える
○平成10年 3月 第1回リニューアル
○平成10年 10月 来館者が100万人を超える
○平成12年 3月 第2回リニューアル
○平成12年 9月 来館者が200万人を超える
○平成14年 3月 閉館
所在地:神戸市中央区 三宮センター街入口
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◆ K-JET |
k-jet内部
操縦室
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1994年9月(関空開港)〜2002年2月7日
K-JETは神戸市の第三セクター「海上アクセス」が1994年9月、関空開港と同時に開業。
ポートアイランドの神戸シティエアターミナル(K-CAT)と関空とを結びました。
就航の翌年に阪神大震災に見舞われ、震災直後は大阪への足ともなり活躍しました。
時速80km少しで30分間の快速、船の旅。
高速ジェットフォイルですが、乗り心地は抜群、揺れないというのが
売りでした。
実際、船内の揺れは少なくジュースもこぼれませんでした。(笑)
六甲の山並みを左手に見て窓は少々海水の塩分で汚れてはいましたが、快適な30分でした。
しかし、乗り換えの手間がいらないリムジンとの競合で苦戦し、客足は減少。
阪神淡路大震災の影響もあり一度も黒字化しないまま、
ついに新造船を投入したこの航路も打ち切りになってしまいました。
累積赤字はこの後2006年にこの航路を引き継いだ「ベイ・シャトル」に引き継がれ、2008年度で約167億円に
のぼりました。
画像はけろさんにいただきました。
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◆ ポートアイランド西はコンテナバースだった! |
撮影:2001.9.22
キリンがいなくなった西バース
2003.7.12撮影
2003.7.12撮影
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◆1980年〜2001年
ポートアイランドは1980年(昭和55年)に埋め立てが完成した人工島ですが、島の外周にはコンテナバースが整備されていました。
しかし、近年のコンテナ輸送船の大型化に伴い、水深の浅いバースでは対応しきれなくなりました。
そのため新たに埋め立てが完成したポートアイランド第二期の用地を含めてバースの再編をはかりました。
一時は11基もあったガントリークレーン(きりん)を撤去し、西バース水際はその素晴らしい景観を活かしたプロムナードに、
また広大なバースの空き地にはいくつかの大学を誘致しました。
新しい西バースは2007年春に学生達の歓声が響き渡る予定です。
西バース最後の神戸キリン
所在地:神戸市中央区 ポートアイランド西バース
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◆ ポートアイランドに菜の花畑、ひまわり畑 |
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◆2001年3月〜2001年9月
震災時に瓦礫に咲いた花。1999年7月震災でお世話になった全国の方に感謝のメッセージとして瓦礫の下から青空にむかってすくっとたつひまわりが選ばれました。そして2000年3月神戸市民と同じ数の150万本のひまわりを咲かそうというKOBE2001(ひと・まち・みらい)運動、花にまつわる市民運動がスタートしました。ポートアイランド会場には春には菜の花、夏には広大なひまわり畑が出現したのです。
所在地:神戸市中央区 ポートアイランド第二期
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◆ 光の芸術 クロモリット |
海岸ビル
商船三井ビル
15番館
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◆2001年7月18日〜2001年8月19日
クロモリット。「石を色で染め上げる」というフランスの造語だそうです。
フランスのパトリス・ワルネル氏によって1989年パリのオペラ座で初めて投影されました。
フランスでは毎年パリ市役所や劇場などで催されているそうです。
建物を写真に撮りコンピューターで彩色したスライドを作成しそれを再び元の建物にプロジェクターで
投影する。
こんな光の芸術が日本で初めてこの神戸で披露されました。
海岸ビル、15番館、神戸市立博物館、商船三井ビル。
4箇所同時投影は世界初だったそうです。
旧居留地の震災を耐えた名建築を美しい光の投影で飾りました。
この神戸のクロモリット以来、このイベントがどこかで行われたのでしょうか。
検索してもでてきません。
願わくばもう一度このイベントをやってほしいです。
写真撮影リベンジを果たしたいです。(笑)
このイベントであらためて見直したのは昔の建築の意匠の美しさでした。
ふだん何気なく見ていたこれらの建物の素晴らしさがよくわかりました。
所在地:神戸市中央区
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◆ ポートアイランドに出来た"田んぼ" |
2001年5月15日撮影
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◆2001年5月
ポートアイランド2期に拡がる空き地に田んぼが出現!
周囲はお花畑も広がり、ここが人工島とは信じられない光景が。
ラジオ放送 AM KOBEのアナウンサーである谷五郎氏が植えられた田んぼもありました。
「オ〜ハッピーモーニング」の番組でも紹介されたと思います♪
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◆ スーパースタートーラス |
画像はDAIさん提供
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◆2000年3月7日〜2001年
25,076総トン数 全長158.88m 公開速力21ノット 旅客定員966名
2000年3月5日(日)初の日韓定期クルーズ船スーパースタートーラスが神戸港第四突堤に初入港しました。
神戸港を母港とし、神戸ー福岡ー釜山ー別府ー神戸の定期航路。
3〜6月は神戸ー福岡ー釜山ー神戸の三泊四日のクルーズと神戸ー福岡ー釜山ー別府ー神戸の四泊五日のクルーズとが
交互にありました。
しかし、この定期航路も1年少しで廃止。
この変わった目をひく船は、神戸大橋を渡るときによく見えていましたが、定期航路ということで
いつでも見れると思ったことからとうとう写真にも撮っていませんでした。
そんなに早くなくなるとは思ってもいませんでした。
DAIさんのおかげで写真を掲載することができました。
感謝!
この船は1980年カーフェリー「バイキング・サガ」として建造されましたが、その後バルト海クルーズに就航。
「サリーアルバトロス」という名前になりました。
が、しかし1990年ドッグで火災にあい、1992年、火災にあった船体を修理し「リーワールド」という名前でカリブ海
クルーズに。
それからスタークルーズにチャーターされ「スーパートーラス」となりました。
元気に今も航海を続けていることと思います!
短いご縁でしたが、その後の幸運を祈ります。
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◆ 高松ー小豆島ー神戸・大阪 ジェットラインの撤退 |
画像はDAIさん提供
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◆1987年〜2000年10月11日
1987年、関西汽船と加藤汽船との共同運航でスタートを切ったジェットライン。
大阪・神戸ー高松を約2時間で結ぶ画期的なジェットフォイルの航路で人気を博しました。
が、しかし、1998年明石海峡大橋が開通すると急速に衰退。
原因はJR四国と四国高速バスの二社グループが運行を始めた高松ー神戸を結ぶ高速バスでした。
時間はジェットラインの方が30分短いけれど運賃はジェットラインの6,100円に対し、高速バスは3,900円。
当初のジェットラインの航路は大阪・神戸ー高松でしたが、小豆島にも寄る航路となり、文字通り小豆島からの生活航路となっていました。
撤退時には航路存続を求める住民運動も起こり、非常に影響力の大きい撤退でした。
高速バスの運行開始に対して、ジェットラインの早い撤退という印象をうけましたが実は本四特別措置(明石海峡大橋開通後2年間限定の橋開通に伴う旅客事業などへの影響の軽減が目的の法律)の
特典を受けるためのやむない早期撤退でした。
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◆ 数奇な運命の”ほわいとさんぽう2” |
年表、資料、画像はRAHYAさん提供
2枚目は最終航海。 神戸六甲アイランドにて。
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◆1981年6月6日〜2000年7月9日
1981年6月6日 三宝海運 ほわいとさんぽう2 今治ー神戸航路に就航。
1984年1月28日 松山ー今治ー神戸就航。
1995年1月17日 阪神淡路大震災。 東神戸港から大阪南港へ変更。
1995年三宝海運倒産。会社更生法適用申請により大阪商船三井の傘下へ。
1996年4月 大阪商船三井船舶の支援を受けて再建開始するも1997年10月1日 三宝海運解散。
愛媛阪神フェリーへ。
1998年4月5日 青木から六甲アイランドへ発着変更。
2000年3月17日 愛媛阪神フェリー、松山ー今治ー神戸航路廃止を決定。
2000年7月9日 国内最終航海。
2000年7月 フィリピンへ。船籍はWG&A社へ。
2000年11月 フィリピンにて「SUPER FERRY14」としてデビュー。
2004年2月27日 マニラ湾に於いて爆破テロにより爆発火災、沈没。
かつて神戸ー松山を航行していた鳳凰の描かれた「ほわいとさんぽう2」は
多くの人たちを神戸ー松山に運び、今もその鮮やかな姿は多くの人の胸に残ります。
数奇な運命をたどった「ほわいとさんぽう2」
こんな船がありました!
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◆ 駸々堂 三宮店 |
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◆1995年9月10日〜2000年1月31日
震災で大きな被害を受けたさんプラザ、センタープラザですが、その年の9月に全館オープン。
その中に京都拠点の駸々堂書店が入りました。
約3,000平方メートルの売り場はワンフロアでは国内最大の広さでした。
駸々堂は明治14年の老舗でしたが、2000年1月31日に倒産。
三宮店も即日閉店となりました。
即全員解雇。
突如三宮に現れた大型書店でしたが、撤退も急なことでした。
神戸市中央区三宮 さんプラザ
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