神戸散策

風見鶏の館(旧トーマス邸)

昭和52年10月3日に始まったNHK朝の連続ドラマ「風見鶏」で一躍有名になりました。


明治42年、設計G.デ.ラテンデ、外壁煉瓦積2階建、半地階、塔屋付、

寄棟造、石綿スレート葺、石造基礎、洋式小屋組、片開きまたは両開き窓、煙突煉瓦化粧積。
間取りは東に玄関ポーチをとり、建物のほぼ中心にホールをもつ典型的な広間型。

昭和53年1月21日重要文化財指定

頂部に風見鶏をつけ、急勾配屋根のゴシック風塔屋をもつなど他の洋館とは異なったドイツ風の趣をもつ。 昭和52年当時は中華同文学校の所有であったが、昭和53年7月に神戸市が購入。

昭和52年10月から始まったNHKの連続ドラマ「風見鶏」神戸を舞台にパン職人のドイツ人青年ブルックマイヤー(蟇目良)が松浦ぎん(新井春美)と風見鶏のように風に向かって力強くいきていくというものでした。

そしてこの放映から思いも寄らぬ情報が神戸市にもたらされました。

★★ エピソード 1 ★★
昭和52年の年末フランクフルトの邸宅に住む一人の老婦人が、朝日新聞の記事で”神戸の山手にある旧トーマス邸”がNHKの連続ドラマで一躍有名になり神戸市が買い上げの計画をしていることを知りました。
彼女の名前はエルゼ・カルボー夫人。
彼女はこの風見鶏の建物こそ亡き父ゴッドフリート・トーマスが建て、少女時代を過ごした神戸の家ではないかと懐かしさのあまりドイツ海外放送の記者に話したのでした。
このニュースによって神戸市は初めて”風見鶏の館”のかつての住人がドイツに生存していることを知りました。

その様な中でそのカルボー夫人はその記者を通じ宮崎市長に”かつての家をもう一度みたい。異人館ギャラリーのようなものになるのなら、その式典にぜひ参加したい”という便りを送りました。



そしてカルボー夫人からかつて風見鶏の館で使われていた家具が神戸市に寄贈され一般公開されることになったのです。
トーマス氏はドイツ人貿易商で神戸、横浜を舞台に活躍された人でした。

このトーマス邸はオリエンタルホテル(震災で全壊)の設計者であるドイツ人建築家G.デ.ラテンデに設計を依頼した彼の思い入れの深い建物でした。

※当時の内部の様子はリンクさせていただいてます
「Remember of Kobe for Me」の「風見鶏の館」に。


カルボー夫人は昭和52年の風見鶏の館の開館式には来日できませんでしたが、昭和54年4月桜の花の美しい時期に来日され、歓迎レセプションが風見鶏の館で開かれました。
ドイツ連邦共和国総領事や神戸市長の挨拶、感謝状贈呈があり、 そのレセプションの中で彼女は
「自分の祖国はドイツだけれども、私の故郷は神戸なのです。」と感慨深く喜びの気持ちを表しました。

式後カルボー夫人は近所に長く住んでいる幼馴染のエリオン嬢と会い65年ぶりの旧交を温めました。
幼い日に遊んだ思い出を語り、どんなにか懐かしいうれしい出会いだったことでしょう。
手をとりあうお二人はなんと可愛らしくみえることでしょう。
カルボー夫人は1998年4月27日、99歳の高齢で安らかに永眠されました。

★★ エピソード2 ★★
★★風見鶏★★

NHK連続ドラマ「風見鶏」の作者の杉山義法氏は次のようにのべておられます。

「神戸の街で印象的だったのが、異人館の屋根の上で港から吹いてくる風に向かって毅然とたっている風見鶏でした。
風見鶏の由来は中世のヨーロッパで、雄鶏が警戒心の強い事から魔よけとして教会の尖塔につけられたのがはじまりだったそうです。
その風見鶏を神戸で見たとき、これをただの風習や装飾とは思いたくなかったのです。
明治の初めに祖国を遠く離れて極東のこの島国に住みついた異人さんたちは、いつも世界の風を気にしながら生きている自分たちの姿を風見鶏に託したかったのではないでしょうか。
それは彼らと結婚した日本人の妻達にとっても同じだったでしょう。
いち早くそして真っ向から世界の風を受けてたくましく生き抜いた彼女達もまた日本の風見鶏だったに違いありません。」

参考文献 「異人館のある町並み 北野・山本」 神戸市教育委員会