★ 今! 神戸に
こんなものがある!PartT

ないげない建物が
なにげない物体が
実はすごいものだったりします。

かつては動物園の諏訪山「子供の園」





ほんの少ししか時間がないとき、ここに来て神戸の景色を眺めたらいいと陳瞬臣さんが おっしゃった諏訪山公園。
その公園に隣接して「子供の園」があります。

斜面に遊具が見られ、木々が生い茂り少し寂しい感じがする公園ですが、ここは昭和26年までは 諏訪山動物園という絶景の景色の神戸市の動物園でした。
市立諏訪山動物園は昭和3年6月開園です。
もともとこの諏訪山公園は諏訪神社の敷地の一部を明治6年に公園としたもので、当時諏訪山の ふもとには温泉がわいていて「諏訪山温泉」として有名だったようです。

今、王子動物園で日本一の長寿を誇るゾウの諏訪子は、まだ子供の頃この諏訪山動物園から 王子動物園までを歩いて移動したといいます。
諏訪子は覚えているでしょうか。

この公園には今でも当時の動物園の面影を残すようなものが残っています。
動物がいたであろうと想像されるケージの形が今でも残っています。

そして南側を見るとうっそうと茂る木々の間から神戸港が望めます。

この児童公園で子供が遊んでいる姿は少なかったのですが、最近この公園を見直そうとする 動きがでてきました。

昔子供達の歓声があふれたにぎやかだったであろうこの地が、またたくさんの人でにぎわうように なればいいなぁと思っています。

神戸市中央区 諏訪山
2006.8.3記

生田の森ー空襲と震災と





三宮生田神社の境内の中にある生田の森。
こんな都心に驚くような静寂な森があります。
空にそびえるくすのきの巨木。

1945年6月5日の神戸大空襲で600の爆弾が降り注ぎました。
生田神社も大きな被害を受け、この生田の森も焼けてしまいました。
が、生き残った木もあったのです!
上部は黒こげで幹はちぎられたようになっていますが、戦後60年、今も生きています。
阪神大震災にも耐え、静かな森の中で生きています。

写真は上部に光が入ってしまい、その雄姿をうまくとらえることが出来ませんでした。
しかし、感じてください。
たくましいこのくすのきの息づかいを。
上部が黒ずんだこんな樹齢500年を越すくすのきがこの森の中には数本あるのです。
樹齢500年といえば、ひ、ひょっとして楠正成の時代ですかっ!
あの戦いをこの木は見ていた!

  神戸市中央区 生田神社境内 いくたの森
2006.7.17記

現存する本州最古の鉄骨灯台






子供の頃どうしてこれが和田岬の灯台と呼ばれるのかわかりませんでした。
須磨の赤灯台。
須磨の海岸で赤い大きな姿は目だっていました。
これがこんなにすごいものだったとは!

「日本の様式灯台建設の歴史は、1866年幕府が諸外国との間に、主要な港に灯台を作る 条約を結んだ時から始まります。
翌1867年、幕府と英国公使が兵庫開港(同12月)に備えて結んだ大坂約定で建設を約束した 5つの灯台のうちのひとつが和田岬灯台です。
和田岬灯台は「日本の灯台の父」と呼ばれるイギリス人リチャード・ヘンリー・プラントンの 指導で、明治4年和田岬砲台の横に作られました。
当初は木製で8角形の灯台でしたが、明治17年に現在の鉄骨造の灯台に建て替えられました。
その後、和田岬は埋め立てが進み、昭和38年には廃灯となりましたが、明治時代の洋式灯台 建設の歴史を示す貴重な資料でもあり、現在の須磨海岸に移築・保存され、平成10年には国の 登録有形文化財となりました。」

「旧和田岬灯台
和田岬灯台は明治4年、木造の灯台として建てられ、明治17年3月、この鉄骨造り灯台に 建てかえられました。
明治初期の鉄骨造り灯台としては本州では現存中最古のもので、洋式灯台の変遷を知るうえに 貴重な資料であります。
昭和38年、海岸埋め立てのため廃灯となったので、ここに移築、保存されることになりました。
昭和39年6月
神戸市教育委員会」

この灯台が和田岬にあったときには今三菱重工にある砲台と水族園の前身である和楽園とが 並んでいるのが写真に見えます。

  神戸市須磨区 須磨海岸
2006.7.8記

日本一長いムーヴィングウォーク



ポートアイランドの市民広場駅から医療産業都市駅までの長〜いムーヴィングウォークがあります。
ポートライナー線が延伸されるまではできたばかりの医療産業都市に行くときは市民広場から歩かねばなりませんでした。
そのためにつけられたこの動く歩道ですが、今は利用する人も少なく膨大な税金の無駄遣いと陰口をたたかれています。
が、住民にとっては南の公園に行ったり、新しくできたホームセンターまでの利用でなくてはならないものです。

この長いムーヴィングウォークをベン・ジョンソンが走りました。
TV番組の企画なのですが、彼の世界記録100mを9.79秒→36.7km/hと動く歩道の速度 1.8km/hとを足して38.5km/hつまり9.33秒で走れるかというものでした。

しかし、これは最初から無理がありました。(笑)
その当時の彼の記録は100mを10.80秒。
さて、実際の測定の結果は10.89秒。

なんだ、動く歩道はなんの役にもたたないじゃないですか〜

この放映があったのが2003年9月24日。
ベン・ジョンソンが走っているところを見たかったです!

  神戸市中央区 ポートアイランド
2006.6.30記

神戸に恐竜がいる!



道を歩いていると突如出くわすこの恐竜。
卵を爪でしっかりと握り、がぉ〜と威嚇しています。
酒屋さんの店先なのですが、何かのイベントで使われたのを譲り受けたとか。

静かな住宅街で驚く人をみてほくそえんでいます。


  神戸市灘区 とある酒屋さんの店先
2006.6.30記

神戸のヤマトは超電導!



日本造船振興財団(シップアンドオーシャン財団)の超電導電磁推進船。
竣工は1990年7月。
1992年7月、超電導の技術を用いた磁石の力で海水を押し出すことによって進む船として、世界で初めて 神戸港で実験航走しました。

従来の船のようにスクリュープロペラやウォータージェットポンプがなく未来の船のようです。

実験船としての役目を終え、今は静かに海洋博物館の入り口に置かれています。

こんな船が走るところを見たかったです〜。


  神戸市中央区 メリケンパーク 
2006.5.31記

神戸全日本女子20k ロードレース大会





神戸全日本女子 20kロドレース大会の記録

ポートアイランドの中公園にこんなものがあります。
第一回がポートピア博を記念してとありますから、1981年のようです。

ポートアイランドはマラソンがよく催されるのですが、この中公園もエントリーの場になったり していました。
ゴールは、たいてい市民広場です。

2005年度は神戸空港開港をもりあげるために、開港前の神戸空港もコースに入りました。
2001年12月16日のマラソンには招待選手としてロバさんも来られたようです。

1981年から始まって今年で25年。
同じようにポートピアの年にできたポートピアランドが姿を消します。

この大会はいつまでも続いてほしいものです。
この歴史の浅い人工島に、マラソンの栄光の記録を刻み続けてほしいです。


  神戸市中央区港島中町 中公園 
2006.5.30記

「復興の石」




復興の石

震災後再建された神戸大丸のトアロード側入り口。
入ったところに大理石の柱があります。

「この大理石(霞更紗 文様)は神戸店が、元町の旧店舗から現在の地に移転した 昭和2年4月当時より、1階の柱に使われていたものです。
平成7年1月17日の阪神・淡路大震災まで、70年近くお客様と神戸店を見守り 続けてきた大理石です。
震災当時、この貴重な石に思いをはせ、崩壊した建物の中から取り出したものです。
平成9年3月2日」

たくさんの人が行きかう入り口ですが、復活したこの大理石の柱は「皆がんばろうよ!」と立っています。


  神戸市中央区 
2006.5.12記

明治維新開港当時関門跡




居留地西関門跡

元町6丁目、ホテルシェレナの外壁に埋め込まれています。
その前は神戸三越の外壁にあったようです。
いつ誰がこの碑を建立したかははっきりしないそうです。
震災11年にしてようやく今後の処理に決着がついたこのホテルですが、次にこの地に建つビル の外壁にも引き継がれていくことでしょう。
説明のプレートは黒くなり読みにくいですが、次のように書かれています。

「この碑は、明治維新時の兵庫開港に先立って慶応3年(1867年)に外国人居留地を設けた時、 密貿易を防ぐ目的で置いた14の番所の一つで西国街道(現在元町通)にあった関門跡に 建てられたものです。
ここの関門は西関門と呼ばれ明治4年(1871年)に撤去されるまで東関門とともに居留地を まもる上で最も重要視されていました。」

東関門は生田筋と西国街道の交差する地点(現朝日ホール付近)に置かれていましたがこれも 明治4年に廃止されました。

  神戸市中央区 
2006.5.12記

震災12年目にして解体が進むこのホテルですが、皆がこの碑の扱いを心配しています。
「みなと元町タウン協議会」が建物を所有する中央区の不動産会社に碑の無償譲渡を求めています。
碑の保存のため、近隣地への移設を希望しています。
2007.11.7追記

ブラジル国花ippeの花



上記2枚は旧移住センター


JR元町駅


神戸にブラジル国花ippeの花が咲きます。

明治41年(1908年)4月28日、第一回ブラジル移民船「笠戸丸」の出航を記念し、ブラジル移民 発祥の地であるメリケンパーク(旧メリケン波止場を埋め立てて出来ました。)に平成13年 4月28日に「神戸移民船乗船記念碑」が建立されました。

移住される人々が日本を離れるまでに過ごされた旧移住センターと、そこからメリケン波止場に 向かう道筋にあたるJR元町駅前に日本とブラジルとを結ぶippeの木が植えられました。

旧移住センターのippeの木は年々大きくなり、花をつける数も増えましたが、元町駅のippeは なかなか花が増えない気がします。

旧移住センターからメリケン波止場へと続く鯉川筋は「移住坂」として整備される動きもあり 夢は鯉川筋をippeの木の並木道にと広がります。
そのためにも元町駅のippeの木は大きくたくさんの花をつけてほしいです。

  神戸市中央区 
2006.3.29記

旧海洋気象台の桜


2003年4月


2004年4月


2005年4月


2006年4月


2008年4月


大正9年(1920年)8月26日、神戸の海運業者が資金を寄付して開設した神戸海洋気象台。

関東大震災時には中央気象台の無線通信代行もしたそうです。

神戸の開花宣言はこの海洋気象台のソメイヨシノが標準木でした。

阪神淡路大震災で全壊した海洋気象台はHAT神戸の新しい建物に移りました。

そして神戸の桜の標準木も2002年度より王子動物園のゲート正面の桜になりました。
開花宣言の頃になるとHATの気象台から職員の方が毎日、動物園に桜を見に来られるそうです。

中山手にあるこの旧海洋気象台の桜の木は、取り壊された気象台跡でそれでも毎年美しい花を 咲かせます。

美しい枝を伸びやかに青空に向かって。
いつまでも、いつまでも、咲き続けてほしいです。

  神戸市中央区 中山手
2006.3.29記

和田回旋橋



この橋の上をJR和田岬線は走ります。
和田岬線は三菱重工の方が利用される通勤列車なので休日は朝夕の2本しか走りません。
兵庫運河にかかる橋には変わった橋が多かったそうです。
多くは船が通るときに回転する回旋橋だったそうですが、今はこの和田回旋橋が見られるくらいです。
今は固定され、JR和田岬線が走るわけですが30KM/hのスピード制限があるそうです。
みるからにスピードを出しては通れない橋ですが。
ここを通る電車を撮影したいと思うのですが、休日では時刻どおりに待機しないと 実現しないですね。

  神戸市兵庫区 兵庫運河
2006.2.20記

湊川神社武者行列





「湊川神社(楠公さん)は明治5年、楠木正成が湊川の戦いで殉節された5月25日に鎮座されました」と湊川神社のHPにあります。
氏子たちが執り行う私祭としてその5月25日に楠公祭が行われます。
明治7年には大楠公(楠木正成)を大将とする騎馬武者が供奉しました。
この明治7年が楠公武者行列の始まりだそうです。

その後、昭和10年の大楠公600年祭には5月24日〜26日の3日間に盛大な武者行列が行われました。
この時の武者行列は「沿道の人出50万と称せられる」中を「おそらく空前絶後の武者絵巻を展開…」と その日の神戸新聞が報じたほどですからすごいものです。
京都の時代祭りに匹敵したほどの規模の武者行列です。

戦後昭和40年までは簡略化されながらも毎年行われていたそうですが、神戸地下鉄工事や 道路工事、阪神大震災のために中断されていました。
1975年(昭和50年)と1985年(昭和60年)に行われましたが、それ以後17年ぶりの 2002年5月26日に湊川神社からハーバーランド、湊川公園をめぐりまたこの神社に戻る5kmのコースを 総勢800人の武者行列が行われました。
このとき、楠公役は井戸表号県知事、弟正季役には矢田神戸市長が 扮しました。
この武者行列は1333年6月、幽閉されていた隠岐から京に戻る途中の後醍醐天皇を神戸で迎え 都まで先導した行列の再現です。
次はいつ行われるのでしょう。

追記:2002年5月26日に17年ぶりに行われた楠公武者行列は、この時から5年後に行われました。
この時の模様です。

  神戸市中央区 湊川神社
2006.2.20記

Kobe Regatta & Athletic Club




神戸レガッタ アスレチッククラブ
神戸の居留地に住む外国人交流のために1870年に設立され日本の 近代スポーツの発祥とされました。
1969年に設立された神戸外国人倶楽部(KOBE CLUB)と共に英国人アーサー・ヘスケス・グルーム氏がこの二つの倶楽部の メンバーでした。
ここで居留地の外国人がラグビー、テニス、サッカー等あらゆるスポーツを楽しみました。
そして日本でサッカーの公式戦が最初に行われたところがこの神戸だったのです。
神戸レガッタ倶楽部対横浜レガッタ倶楽部。
最初の試合は全員が外国人だったそうです。
驚くべきことに今でも年に一度の対抗試合が行われているということです。
1870年にはこの倶楽部が主催するレガッタが初めて居留地の東の浜で行われましたが 年々神戸港が貿易によって発展してきて寄港する船も多くなったことから、もっと東の今の灘区の 敏馬神社の南の浜あたりで行われるようになったようです。

このアスレチック倶楽部のすぐ側の高架をポートライナーが走っているため車内から 外国の方々が楽しげにテニスに興じる様子がよく見えます♪

  神戸市中央区 磯上公園内
2006.2.9記

鎮魂の雪地蔵




「鎮魂の雪地蔵中止」へ
 阪神・淡路大震災の追悼行事で毎年作られてきた「鎮魂の雪地蔵」が今年は中止となりました。
富山県のスキー場からトラックで運んできていただいて、神戸の高校生等によるボランティアの皆さんによって作られてきた雪地蔵。
神戸市の助成打ち切り、燃料費の高騰、人手がないということからですが、本当に残念です。
昨年の震災10年をひとつの節目として追悼行事も縮小されるようですが、私たちの気持ちは何年たとうが何十年たとうが かわりはしません。
富山県のご好意で始まったこの雪地蔵ですが、今では1.17の神戸の心の拠りどころともなり、雪地蔵と竹筒に灯りを 灯し犠牲になられた方々の鎮魂を祈ってきました。
来年は復活することを祈って「今、神戸にこんなものが…」にupいたします。

  神戸市中央区 東遊園地
2006.1.15記

穴の開いた戸口



南京町に穴のあいた戸口のお店があります。
南京町広場でいつも行列が絶えない店。
老祥記の店内にあります。
1915年の開店以来、神戸南京町のぶたまんのお店として親しまれ 絶えずお客さんがガラガラと引き戸をあけて入ってくるため、 とうとう穴が開いてしまいました。
この引き戸はこのお店の歴史を見守っています。
神戸の名店 老祥記

  神戸市中央区 南京町 2006.1.14記

山陽新幹線神戸トンネルの貫通石


「貫通石の由来」
「山陽新幹線神戸トンネルは旧布引中学の西側から始まるトンネル工事は 区間の両方の入り口から掘り進み、両方の間の最後の壁となった岩盤を爆破して握手する  
これが貫通式でこの岩石はその時のもので新校舎の完成記念として国鉄から贈られた ものである。
なお、貫通石は安産の守り石として重宝されると聞く。 昭和53年10月 創立30周年記念」

山陽新幹線神戸トンネルは難工事だったそうです。

神戸市中央区
2006.1.9記

妙善寺のそてつ



歩いていて見つけました。
灘100選に選ばれています。
灘区は非常に面白いです。
灘100選マップもあったりしてがんばっていると思います。
他の区もできたらと。
あれ?他の地域でもあるのでしょうか。

「妙善寺のそてつ」
「長さ3〜6mの主幹が12本、側幹が20本、全体の枝張り約8mで樹高は4mを越える巨大なそてつ。
大正13年、新在家在住の造園家 八尾甚右衛門氏が現在地に移植。
推定樹齢170年を越え、樹形が美しく地域のシンボルになっていることから平成16年3月市指定文化財(天然記念物)に 指定されました。」

本当にりっぱなそてつです。

神戸市灘区新在家
2006.1.9記

出会いの石


ポートアイランドの港島小学校に「出会いの石」というものがあります。
日付は「1980.3.20」

この地、ポートアイランドは高倉山の山の土からできました。
港島小学校には港島太鼓というものがあり、毎年毎年受け継がれているものですが その港島太鼓の途中で出てくる「出会いの詩(うた)」にしっかりとこのポートアイランドの成り立ちが歌われています。
「山、海によびかけ海をひらき 海、山をむかえて大地をひらくふたりの出会いが世界をむすぶ」
またその校歌にも「この土に山の気みちて」 とあります。
校門にこの大きな石があるのですが、その存在を深く考える在校生はいるでしょうか。(笑)

神戸市の「山、海へ行く」はポートアイランドの次に六甲アイランドも出現させました。

神戸市中央区港島中町
2005.12.6記

ダンプの道は今、清流の道


「山、海へ行く」の神戸方式が始まった頃です。
昭和38年(1963年)渦森山の宅地開発、またその土砂を臨海部の埋め立てに使うためにダンプで土砂を 海まで運ばなければなりませんでした。
ベルトコンベアの案も出たようですが、運ぶ土砂が少なかったこともあり運搬方法はダンプに決まりました。
交通事故や環境に与える影響を考え、なんとこのダンプは川の中を通るのです。
住吉川の阪急電鉄上流から河口付近まで2.5kmに渡って河床を平均50cm掘り下げ、河床の両側約4.5mを 平均50m盛り上げダンプ道としました。
渦森山は標高385mの山でしたが、これを80m削って約800万立方mの土砂を 取り出し、埋め立てに使いました。
このダンプは6年間で190万回往復したそうです。
この削られた山は渦森団地となり昭和49年(1974年)に完成。
運ばれた土砂は東第三工区となりました。
ダンプが行きかった住吉川も今は市民の努力で美しい川となり鮎も見られるようになりました。
上流にはクレソンも自生し、かわせみも目撃したこともあります。
このダンプの通った跡は、今は市民の憩いの散歩道です。
神戸市東灘区
2005.11.14記

神戸のびりけん様




びりけんさんといえば、通天閣が有名ですが、おっと神戸にもびりけんさんは居られます。

古い路地が残っている稲荷神社界隈。
ここは震災で多くの古い家がなくなってしまった神戸で、数少ない昔の面影を残すところです。
その稲荷神社の一番奥にびりけんさんは座っておられます。
少し薄暗いですので最初びびりましたが、大丈夫です。
通天閣のびりけんさんとは少しお顔が違います。
福の神様ですので皆さんどうぞ、お参りに行かれてください♪
失礼して下から覗かせていただくとちゃんと米俵の上にお座りされていましたし、打ち出の小槌も持っておられました。

なお、通天閣のびりけんさんは足をこちょこちょするといいことがあるそうです。
神戸のびりけんさんは?!
以下は稲荷神社のビリケンさんの横につけられていた説明書きです。

「ビリケン(BILLIKEN)は1907年(明治40年)にアメリカの女流彫刻家が神の姿を夢想して 制作し、翌年シカゴの芸術博覧会に出展したものです。
これが人々の好奇心をそそり、大理石製の坐像やセルロイド製の立像が幸運のマスコット、 福の神として世界的に流行したもので日本にも明治の終わりに渡ってきました。
名前の由来は当時アメリカの大統領であったウィリアム・タフトの愛称ビルにちなんだものと言われていますが 最近ではビリケンのモデルはロシアのイヌイット族の間で500年前からセイウチの牙で作られている ベリケン(BELLIKEN)という人形ではないかとも言われています。
主なものとしてはフランスの装飾品メイカーのカルティエ社が1923年に制作したミステリークロック「ポルティコ」 (鳥居形をしたあ置時計の頂部に水晶のビリケンが座っているデザインで現在もカルティエの 博物館に収蔵)でディベアのぬいぐるみで有名なドイツの玩具メイカーのシュタイフ社1920年 に製造販売したぬいぐるみ人形、ビビアン・リー主演の映画「哀愁」の中で幸運のマスコットとして登場する セルロイド製のマスコットなどがあります。 また、キュービー人形(1912年アメリカの女流芸術家ローゼ・オニールがデザイン、原型は シュタイフミュージアムに収蔵)との共通点も多く作られた年代からしてビリケンがキューピーの モデルであった可能性が高いと思われます。
当社に祀られているビリケン様は、大正の初め神戸に寄港したアメリカ人の水兵によってもたらされた ビリケンを見た元町の洋食屋の主人が本物を真似て作ったものです。
木製のこのビリケン様は、全体に朱の漆を塗り米俵に腰をおろし、右手に打ち出の小槌、左手に 瑞玉を持ち背中に大判まで背負うという全身福のかたまり。
これを店頭に置いたところ、新物好きな神戸っ子に大変な人気を集め、そのあまりにもすごい人だかりのせいで 連日店の入り口がふさがれてしまい、当社に相談に来られて奉納されることとなったものです。
それが大正の終わりごろのことです。
爾来、松尾稲荷神社の福の神、「松福様」として多くの参拝者の篤い信仰を集めてまいりました。
現在では本来の御神徳に加え病気平癒の神、子供の神、ひいては学業の神としても信仰される ようになりました。」

なお、松尾稲荷神社は現在の社殿が造営されたのは1914年。
湊川の合戦(1336年)が始まる前、神仏の護符が戦いによる血で汚れるのを嫌った楠木の一族郎党が旧湊川の堤防に あった稲荷のほこらにそれを納めたと伝えられ、そこには松が植えられたいたことから後年社殿が作られたとき 松尾稲荷神社と名づけられたそうです。

2005.11.13記

ロドニー号にちなんだロドニー賞



元町6丁目にかかる
ロドニー号のモニュメント


元町6丁目にロドニー号のモニュメントがあります。

「1868年1月1日神戸は世界のKOBEとして開港しました。
開港を祝って英国の艦船12隻、アメリカ、フランスなどの艦船6隻、計18隻が入港し祝砲を打ち上げました。
その英国艦船12隻の旗艦がロドニー号です。
神戸開港120年と元町6丁目商店街のアーケード完成記念を祝してロドニー号を6丁目のモニュメントとして製作しました。

1987年11月28年」

このロドニー号にちなんで「今の神戸をドカーンとびっくりさせた貴方に贈ります」という賞があります。

神戸の市民生活を彩る芸術家らに贈られ、選考委員長は下村俊子・神戸風月堂会長。
この賞は吉川冬季子・神戸風月堂元相談役の基金を基に創設されました。

今回受賞は1988年の創設当初からの先行委員長である陳瞬臣さん。
今までの受賞者には前海文堂社長の島田誠氏、神戸の特色ある風景を描き続けた米田定蔵氏

市民団体が市民に贈る素敵な賞です。
2005.11.6記

天国に一番近い島は神戸から始まった!

「人魚の涙」


「天国に一番近い島」は神戸からはじまった

森村桂さん。
1964年「天国に一番近い島」を発表。
この島はニューカレドニアのことですが、その島に行く前に神戸に来られていたのでした。

この作品を発表してから一躍人気作家となり、この作品は映画化もされました。
軽井沢に「アリスの丘ティールーム」というケーキ屋さんを開き、絵画にも才能を発揮。
多方面にわたって才能があった方でしたが、惜しくも2004年9月27日永眠。

この絵は阪神大震災の翌年、震災でなくなられた方々への鎮魂の絵として神戸市に寄贈されたものです。
市役所24階のエレベーターを降りると迎えてくれるのはこの優しい絵です。
2005.10.30記

環境にやさしい新交通手段、ベロタクシー

2005年10月、ベロタクシーが運行を開始しました。

VELOTAXI
VELOとはラテン語で「自転車」を意味するそうです。
ドイツの首都ベルリンで1997年「人と環境にやさしい交通手段」として開発された 自転車タクシー。

現在ヨーロッパ各地で新しい交通手段として活躍中。
そんなベロタクシーが神戸でも走り回ります。
運行台数は6台。
11時〜日没まで。
大人1名 初乗りは500mまで250円。小学生未満200円。
100mごとに200円。
乗車地から目的地までの直線距離で乗車賃は算出します。
停留場はないので、走っているのを見かけたら手をあげて止めます。
運行エリアは旧居留地、三宮からハーバーランド。
JRより南に限られています。
神戸は坂の街ですから山手はきついですよね。
2005.10.25記

現存する日本最古のオリーブの木は神戸にある!

現存する最古のオリーブの木は神戸にあります。
1879年(明治12年)フランスから輸入した2000本のオリーブの木のうち、600本は神戸温帯 植物試験場(後に神戸オリーブ園と改名)に植えられました。
結実したオリーブの実で初めてオイルを絞り、テーブルオリーブも製造したようです。
オリーブ園は今の県庁あたりにあったようです。

そのうちの生き残りの数本が加古川市の宝蔵寺と神戸市の湊川神社の境内にあります。

その樹の傍らには次のように表示されています。
「この樹は明治11年パリの万国博で日本館長をしていた前田正名がフランスより持ち帰ったものの 一つで日本最初のオリーブの樹と云われている。」

しかし、この老木も傷みが激しく皆で大事にしたいと思います。
ちなみにオリーブの樹は長命で樹齢1000年というような樹がエルサレムにあるそうです。

-神戸市中央区 湊川神社-
2005.10.21記

ニュートンのりんごの孫の木♪


◆平成元年3月〜

神戸ポートアイランドの青少年科学館の前庭にりんごの木があります。
この木はニュートンのりんごの孫の木だそうです。

説明書きには、
「約300年前にイギリスのニュートンが”万有引力の法則”を発見するきっかけとなったりんごの木を接木した孫の木です。 平成元年3月」
とありました。

また、もうひとつの説明書きには
「ニュートンが見た木は現存しないが、子孫の木は接木を繰り返して保存された孫にあたるりんごの木」と書かれていました。
背丈は1.5Mくらいの木ですが、実をつけたらいいなと思っています。

-神戸市港島中町 青少年科学館前-
2005.9月記

すずめのお宿は神戸にあった。

神戸市須磨区板宿駅から北へ歩いて20分。
南北朝時代に開かれた臨済宗南禅寺派「禅昌寺」という由緒あるお寺があります。
このお寺のお坊さんが雀に宿を作ってやろうと考え横に入り口の穴をあけたひょうたんをつるしました。
それが評判となり全国からひょうたんが送られてきました。
一躍「すずめのお宿」と有名になったこのお寺ですが、紅葉が美しいことから別名「紅葉寺」とも言われ 初代兵庫県知事の伊藤博文も訪れたことがあるようで、彼が書いた漢詩の碑もあります。
すずめのお宿のひょうたんは、昔は本堂の前にある鐘つき堂につるされていたそうですが、今は本堂の西隣にある 「開山堂」に移されています。
100個ほどのひょうたんは毎年11月になると取り替えられるそうです。

-神戸市須磨区禅昌寺町ー
2005.9月記

  今!神戸にこんなものがある!PartU