神戸散策

神戸散策

成功を夢見て。神戸移住センター

トアロードの突き当り、神戸外国倶楽部を西に歩くと、又はJR元町駅をまっすぐ北に鯉川筋を歩くと古い鉄筋コンクリートの5階建ての建物があります。
入口にはブラジルの地図をかたどったブラジル移民発祥の地の碑。
ここは石川達三の小説「蒼茫」の舞台にもなった旧国立神戸移民収容所、現神戸移住センターです。

一時取り壊しの話も出たこの建物ですが、ブラジルの日系人らから移民の歴史を保存したいとの声もでて「国立海外日系人会館(仮称)」として保存されることになりました。
この移住センターは1928年、国が移民が渡航する前に7日〜10日間滞在し語学や文化の研修などを受けるために開設したところです。
1971年に閉鎖されるまで実に25万人の移民の方がこの建物で祖国で最後の日々をすごされブラジル、南米に旅立たれました。


神戸は移民の方が日本で過ごされた最後の土地なのです。

閉鎖されたあとは神戸市が買い取り市立高等看護学校、また震災後被害をうけた神戸海洋気象台などに貸したりしていましたが、今はCAP(芸術集団)が2階以上を使用しています。

さて、長くなりました。
まずは入ってみましょう。
中の作りは移住される方のために廊下、階段も船室を模してこれからの長い船旅に慣れるように配慮されてあります。
廊下には移住された方々のご家族の写真、また移民が盛んだった頃の神戸の写真が並べられ当時の街なみも知ることができます。
机や椅子は昔使われたままの物が置かれてありました。


別離の言
俺は故郷を想う
第10期コチア青年はとても優秀である
俺たち皆は成功を夢見ている
(4行不明)
成功しろと言われ○いる
これが俺たちの願望である
(○は不明箇所)

3階では壁紙がはがれた時に偶然発見されたコチア青年の落書きを見る事ができますが、発見された時よりなお字も薄く読みにくくなっているとのお話でした。
なんとかこの貴重な資料が保存されないものかと思います。

当時移民は家族単位で行われましたが、18歳から25歳までの独身男性による組織的移住も行われました。
コチア青年と呼ばれるこのような大掛かりな若い集団移住は世界的にも類をみないものでした。
ベッドの上の壁のはりの部分にのびあがって書かれたものと思われます。
当時のコチア青年の成功を夢見る高揚した気分がよく表れています。
そのコチア青年も今や平均年齢65歳。
1997年ブラジルを訪れた美智子皇后も”コチア青年は永遠の青年ですね”と言われたそうです。

そして今は神戸市立海洋博物館に保存されている初代移民船の「笠戸丸」の写真。
写っている背景は明治の初めの頃の神戸の六甲の山なみです。
この移住センターを訪れて笠戸丸、あるぜんちな丸のお話をききました。
ひとつの船がしずめられひきあげられ国籍を変え名を変え、移民船となり軍艦にもなりたくましく時代を生き抜いてきた数奇な運命に圧倒されました。

そしてこれは特別にお借りして写させていただいたあるぜんちな丸の出航直後の写真です。

この写真は昭和37年4月2日神戸港出航とありますから、このHPでリンクさせていただいている
「私たちの40年!!」の和田様たちがこの岸壁を離れゆくこの船に乗っておられたのですね!

夢と希望をもってかの地に渡られた方々の活躍は「私たちの40年!!」に詳しく書かれています。
また、移住センターには当時の(昭和30年代)ビデオもあり神戸の当時の風景と船に乗船されるまでの移住センターでの生活を知ることができます。
渡航の準備の合間に布引の滝を見学されたり、また元町で身のまわりのものをそろえられたりしている様子が撮影されておりました。
この屋上で神戸の夜景を見ながら最後の日本の夜をすごされる方が吹くハーモニカーの音色が心に残ります。
日本の移民の方々は初めて入植された時から、勤勉で礼儀正しく受入国の人々の賞賛の的でした。
南米の国々の産業は入植された頃から飛躍的な伸びをみせました。
移住された方の懸命の努力もその発展の大きな推進力になっていたに違いありません。

今や時は移りブラジルや南米の国から出稼ぎに日本に来られる時代となりました。
少子高齢化の日本はこれからは移民を受け入れる国となるようです。
その時に日本はどのような受け入れをするのでしょうか。
そんな時代ももう目の前です。

最後になりましたが、あるぜんちな丸の写真まで持ってきていただき、毎週のように移住センターを訪れるうるさい取材(笑)にお付き合いいただきました日伯協会の黒田さま、ありがとうございました。

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