-三宮駅前周辺-
あの日から3日め、通行禁止の神戸大橋を歩いて渡り東遊園地の歩道橋から眺めた三宮。 ヘリコプターの音と救急車の音で となりの声も聞こえないくらいでした。 |
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全壊した国際会館は再建されひときわ大きく目につきます。 (1999年4月再建) 市役所も潰れた5階より上は取り除かれ、6階建てが4階建ての建物となりました。 (1996年完成) |
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三宮センター街のアーケード。 グチャグチャになったアーケードが 撤去され、生まれて初めて青空のセンター街を経験しました。 (アーケード撤去1995年2月) とまどいながらも人々はそれにも馴れていきました。 お店が全壊した方は路上でアクセサリーを売ったりして、たくましさを感じたりしました。 でも新しいアーケードができた時は感動でした。 特に夜のアーケードの美しさは格別でした。 (新アーケード 1997年3月完成)
アーケードがなくなっていた1996年夏、暑いセンター街に氷柱が出現しました。 |
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震災復興館としての勤めを終え、駅前の一等地はおしゃれな東京資本のマルイになりました。 (2003年10月完成)
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来年はここマルイと交通センタービルとが歩道橋で結ばれます。 またここの景観は変わってしまうでしょう。 地上と地下と人の流れが分かれます。
写真は歩道橋工事が始まったマルイ北側(2004年7月 交通センタービルより) |
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駅前のそごうはいち早く再建され、市民に元気を与えてくれました。 (1996年4月再建) 以前より売り場は縮小されましたがとにかく駅前のデパートが元気な姿を見せてくれたのは心強い思いがしました。 ポートライナーから降りてすぐ真前が潰れたそごうの姿でした。
交通センタービルも建て替えられました。 |
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震災前はプランタンだった今のダイエー三宮駅前ビル。 3日目、開いているお店がまったくなかった時、品薄の商品が並べられていました。
地下1階に今もあるパン売り場。 |
店を出ると出口のところでお店の方がずらりと並び、がんばってくださいと声をかけてくださいました。 このお店も経営が苦しいようです。 がんばってほしいです。 |
あの時、本当に水があったなら火災による被害ももっと少なかったに違いありません。 神戸の河川は山から海へ流れる距離も短く急流で水量も少なく水を蓄えることができません。 そんな反省からフラワーロードの下に山からの水を通して海へ流すという構想もききましたが、実現していません。 1995年2月に公表された淀川水系から導水し、地下に埋められた導水パイプから尼崎から須磨区までの15河川に流し続けるという構想も棚上げになったままです。 震災の教訓を生かし何とか実現してほしいです。。。
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居留地の外国人がテニスやフットボールを興じた東遊園地。 ここに震災の慰霊と復興のモニュメントと1.17希望の灯りが設置されました。 希望の灯りは「やさしさ」「思いやり」「生きている証し」の象徴。 被災10市10町47都道府県から寄せられた種火を1つにしたものです。 震災から7年目の2001年1月17日、神戸からありがとう KOBE2001のメッセージとしてこの希望の灯りが分灯され市民ランナーにより全国69都市へ届けられました。 |
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そして慰霊と復興のモニュメントには亡くなられた方々のお名前が刻み込まれ、毎年1月17日の午前5時46分にはここに市民が黙祷をささげます。 ここは神戸市民にとって特別な場所になりました。
しかし、ここがどんなところであるのか、この希望の灯りがどんな意味を持っているのか、知らない人も増えてきました。 |
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1.17希望の灯りには次の碑文が刻まれています。
1995年1月17日午前5時46分 阪神淡路大震災
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被災ビル8割再建 阪神淡路大震災で取り壊された神戸三宮、元町地区のオフィスビルのうち、8割以上が再建、または建設途中だということです。 被災し解体された三階建て以上の賃貸オフィスビル計67棟のうち再建済み、建設中は55棟、これは全体の82%を占めています。 このうち36棟は震災前と同じオフィスビルとして、しかし19棟はオフィスビル以外の建物として再建。 マンションと店舗として再建されたのが5棟ずつ、ホテルや専門学校として再建されたビルもあります。 一方18%にあたる12棟は更地のままに取り残されたり駐車場として使われていたりで再建の計画はたっていません。 全体として10年たって8割が再建されたという状況です。以上神戸新聞。 |